みかわち焼き

磁器を薪で焼く みかわち焼 登り窯

便利なガス窯や電気窯の普及した現代に、細い筆を駆使した絵付けの染付(そめつけ)磁器や、動物・植物をかたどった繊細な磁器を、あえて薪の窯で焼くのはほとんど見られなくなりました。しかしこの三川内の土地では、有志のつくり手たちが集まり1年に1〜2回のペースで登り窯の焼成を20年以上続けています。

この登り窯の歩みや協働で窯を焚く魅力について、窯元たちが語りました。

江戸から昭和にあった登り窯

三川内皿山地区には、江戸時代から昭和時代にかけて二基の長大な連房式(れんぼうしき)(のぼ)(がま)がありました。
 全長120m、1600年代の終わりから1937年(昭和12年)まで稼働した東窯。そして全長100m、1700年代前半より1942年(昭和17年)まで稼働していた西窯です。窯の正面には、焚き口が二つあったと伝わっています。

現在使われている登り窯が構想されたのは、1993年。まず、東窯の窯焚きを実際に見た経験があり、その特徴を覚えていた故椋尾貞示(むくおていじ)氏から当時の様子を聞き取りました。それを基に、二つの焚き口がある形を継承した新しい窯の設計が始まります。

登り窯を築いたきっかけ 1993年

─ 組合の寄り合いで集まってお酒を飲みながら「登り窯って面白そうだよね」という話から始まりました。私たちの世代はガス窯しか使ったことがなく、窯焚きの技術の基礎がまったくありませんでした。登り窯をつくることで何かわかるかもしれない。さらに、次のステップとして窯の焚き方も身につくかもしれない。そういう思いがみんなの中にあって、どこまでやれるかわからないけれど「まずは登り窯をつくる」という目標を立てました。[ 玉峰窯・中里峰幸 ]

─ 平戸焼の古いものを見て、そこに近づきたいと思ったのが最初の動機でした。呉須(ごす)(藍になる絵の具)の発色の仕方とか、肌の白の出方とか。焼けば出るだろうと思っていたのが、焼いただけでは出ないことがわかりました。[ 平戸松山窯・中里月度務 ]

─目的は「基本を学ぼう」ということ。やきものを焼くという最も基礎の部分である、火の温度の上がり方、窯の雰囲気のつくり方というものを学んでいくというところからスタートしました。[ 今村房の輔・今村大輔 ]

再現したのは、昔、
皿山地区にあった登り窯 
1996-97年

窯づくりは、窯元たち自らの手で土地を造成し、材料を調達して耐火煉瓦(たいかれんが)を積み上げていきました。壁には、昔と同じ砂岩(さがん)系の石と赤土を使っています。1996年、胴木間(どうぎま)(燃焼室)と2室の房(うつわが詰まれ、焼成される部屋)を備えた、新たな登り窯が完成しました。こうして協働で運営する窯焚きがスタートします。

─ 現代の効率のよい登り窯ではなく、1942年まで使っていた登り窯を再現したのは、その窯だけしか知らなかったからです。ボタンを押せば焼き上がるような現代の窯ではなく、「焼くとはどういうことなのか」をわかってものをつくっていくのは大切だと思います。[ 玉峰窯・中里峰幸 ]

─ 当初は窯の焚き方を学ぼうと考えていました。中に入れるのは自分でつくったうつわです。ガス窯に入れるものをそのまま持ってきて焚きました。もちろんわかってはいたのですが、最初は大失敗。薪を割って、くべて、火と格闘しながら焚く薪窯を経験することで、ガス窯が簡単に焚けるようになりました。[ 平兵衛製陶所・中里哲治 ]

─ 昔の窯焚きのやり方は実際に見たことがなく、想像でしかない。当時、窯焚きのやり方は、私の叔父や父の知り合いから「こんなふうにやっていた」と聞いただけ。だから、足りない部分はどこなのかを自分たちで発見しなければいけない環境です。しかし、薪で焚くというそれだけでどこかに発見がある。そういう面では、「焚き方はこうでないといけない」と決めつけなくてもいいと思っています。登り窯で焼いて、偶然の産物ですごくよいものができたときに「どうやったらこんな色が出て、どう焚いたんだっけ?」となっても、それはそれでよいのではないかと。[ 平戸松山窯・中里月度務 ]

手探りで焚きながら学ぶ

─ 商工会から受けた仕事(陶板の制作)の報酬を元手に、みんなで協力して煉瓦を積み、窯ができました。登り窯を焚いたことのある先達に焚き方などを教わりましたが、最初の頃は失敗もいろいろとしました。でも、だんだんと知識と技術が蓄積されてきた。これが一番大きな収穫です。[ 玉峰窯・中里峰幸 ]

─ 窯をつくった当初はみんなでワイワイと、ただうつわを焼いていた印象です。しかし、5年くらいまったく焼かなかった時期がありました。それから何かのきっかけで再開し始めたときには、作品を制作するという目的にググッとシフトをしていったという感覚です。ここ数年は本来の形である、作品を生み出す窯になってきました。[ 平戸松山窯・中里月度務 ]

ガス窯との違い

20世紀以降、日本の近代化とともに、やきものの世界では、薪を燃料にした登り窯から石炭窯に、第二次世界大戦後は、重油窯、そしてガス窯、電気窯へと、その時代時代において最も理に適った仕組みの窯に移行してきました。
 その流れは三川内も同じで、現在は主にガス窯でうつわが焼かれています。ガス窯は酸素の量や温度のコントロールが容易で、煤などが混じることなくきれいな状態の炎を保つため、白いものをより白く、呉須の藍を鮮やかに焼き上げてくれます。繊細な筆づかいや細かな造形(細工)という、みかわち焼の特徴をより際立たせます。

みかわち焼 登り窯
焼成時間:33~35時間
薪の使用量:250~260束
最高温度:1280~1290度

─ ガス窯の場合は、温度計やガス圧を見ながら簡単に温度を上げることができます。しかし、薪窯はそうはいきません。季節、天候、風向き、さまざまな要因によって大きく左右されるからです。このコントロールできないところが薪窯の面白さでもあります。[ 今村房の輔・今村大輔 ]

─ 最初の頃は1260度までにしかならなくて、何時間焚いても温度が上がらない。しかし、それでもしっかりとカッチリしたものが焼き上がりました。そのときに、これは温度の高低ではないと気がつきました。「熱量 × 時間」ということ。料理にたとえると、煮込み料理です。煮込み料理のような焚き方をどうやってうつわに表現するか。炎のカロリーが一番のポイントです。[ 玉峰窯・中里峰幸 ]

─ この薪窯で狙ったものをつくるのか。偶然の産物をつくるのか。みんなそれぞれ違った目的のものが生まれてくるものもまた面白さのひとつです。[ 今村房の輔・今村大輔 ]

─ 表面に灰がかかることでイレギュラーな凹凸や変化が生まれ、それがしっとりした柔らかい感じを与えていることに少しずつ気づいてきました。[ 嘉久正窯・里見寿隆 ]

─ 不規則性が焼き上がりを大きく左右すると感じるようになりました。その不規則さが、一般に言われるような「味」という部分に関わってきていると思います。季節によっての窯の状態、雰囲気をとらえながらやっていくのが大切です。[ 嘉久正窯・里見寿隆 ]

─ ガス窯の場合、私は100パーセントを狙ってつくることができます。薪窯はその100パーセントをつぎ込んだ上に、さらに仕事をしてくれる。ガス窯では変形はしないのに、薪窯では考えられない変形を起こす。それを利用して挑戦する楽しみもあります。[ 今村房の輔・今村大輔 ]

─ 火が窯の中でどう流れていくかを常に想像して、どこに入れたら火がどう回り込むかというようなことを考えるのが登り窯の楽しいところ。窯を焚くこと自体が楽しいです。[ 平戸洸祥団右ヱ門窯・中里太陽 ]

─ 効率よくきれいに焼くために、窯は技術的な進歩を遂げてきました。しかし一方で、昔のうつわには素晴らしいものがたくさんあります。登り窯とガス窯の特性の使い分けができる。そういう選択肢があるのはとてもよいことだと思います。[ 平戸洸祥団右ヱ門窯・中里太陽 ]

─ 違いは、石などの硬い製品と相性がよいのがガス窯で焚いたうつわ。木のテーブルなどぬくもりのあるものと相性がよいのが登り窯。私の感覚ではこのような感じです。自分の頭でコーディネートして、登り窯とガス窯で焼くものを分けています。[ 平戸松山窯・中里彰志 ]

協働で焚く窯の魅力

薪の準備、窯詰め、窯焚き、窯出しは、全員が参加して進めます。窯元が日々の制作で行うガス窯焼成と、この登り窯焼成が違うのは、手間の多さと時間の長さだけでなく、参加者の日程調整から始まるすべての作業が自分のペースで進められないことです。

─ ガス窯は一人で焚くものです。しかし、薪窯はみんなで協力して行うもの。そこで仲間たちと騒ぐのも楽しい時間です。共同窯の仲間としてみんなと薪を割ったり、窯を焚いたり、それぞれの役割があって、町内行事のような感じで。みんながいないと成立しない窯です。[ 平兵衛製陶所・中里哲治 ]

─ 基本的に窯焚きは個人的なものですが、三川内は共同窯なので、他の人がどういうものをつくっているのかがわかります。「隣りのあいつがこんなものをつくった。だったら、私は次の窯でこういうものをつくってやる」。お互いがつくっているのを見て、切磋琢磨できた共同窯だからこそ、みかわち焼は世界的にも優れた技術が生まれたのだと思います。[ 今村房の輔・今村大輔 ]

─ みんなからいろんなことを教えてもらったり、刺激をもらったりしています。この経験は次の作陶や窯焚きに活かせるので、仲間とこのように行うことはとてもいいことだと思います。同じみかわち焼といっても、窯元が違うと考え方も人それぞれです。そこを知ることができるのはとても興味深いです。[ 玉峰窯・中里金之助 ]

─ 自分たちの力で薪窯を焚くことで、ガス窯とは違うやきものができ上がる。そして、みんなとともに焚くからこそ、自分の作品のでき上がりが変わってきました。薪窯を使ったことで、ガス窯での取り組みも変化しました。これまでのみかわち焼の歴史の中で、昔のよいうつわの雰囲気のものをガス窯でもやりたいと考えています。[ 平戸洸祥団右ヱ門窯・中里太陽 ]

─ 登り窯で焚く目的はみんなそれぞれ違います。その中で産地の取り組みとして、安定した窯を焚くというのが第一だと考えています。[ 平戸松山窯・中里月度務 ]

窯の大きさ
全長:5.3ⅿ
幅:2.5ⅿ
部屋の高さ:1.45ⅿ
部屋の容積:1 室1.5㎥
煙突高さ:3.9ⅿ

窯焚きの流れ


窯詰め 窯焚きの前日
釉を掛けたうつわをそれぞれが持ち寄り、窯のなかに詰めていく作業を共同で行います。
 焼成の際は、うつわを重ねて置けないので(冷めた際に釉によって接着してしまうため)、現代はカーボンの板と支柱を使い棚を組み、うつわを並べていきます。又、うつわと棚板が着かないように間に「ハマ」を噛ませています。

 釉を掛けたうつわ、特に絵付けをした磁器のうつわは、「ボシ」もしくは「匣鉢(さや)」と呼ぶ、薪の燃えた灰が被らないように陶器製の覆い(容器)にいれます。薪が燃えて窯のなかに飛ぶ灰がうつわの表面に付着すると釉が変化しますが、磁器の世界ではそれを「汚れ」としてきたため、灰の付着を避ける方法です。しかし、薪を燃料にした窯ならではの変化を見せるために、敢えて容器にいれない場合もあります。

窯焚きの始まり 火入れ 1日め午前7時
焚き始めから数時間は、正面の焚き口(薪の投入口)に雑木などを置いてゆっくり温度を上げていきます。急激な温度変化でうつわが割れてしまうのを避け、また水気を含んだ地面や窯を乾燥させるためです。


火入れから12時間後 1000度越え 1日め午後7時ころ
焼成開始から約12時間。窯のなかの温度が1000度を超えるあたりから、薪を投じるタイミングが早くなっていきます。薪を投じるごとに窯のなかの酸素が少なくなり、不完全燃焼の状態が生じます。その時、煙突からは黒い煙が立ちます。

火入れから12〜24時間後 1日め午後7時〜2日め午前7時ころ
2人が窯の正面に構え、窯のなかの温度が下がらないようタイミングを見ながら、同時に薪を投じます。多く入れすぎると窯のなかの酸素が不足して温度が急に下がるため、数分に1回のペースで投じる作業を繰り返します。

火入れから24~26時間後 2日め午前7時〜9時ころ
薪を多めに投じた後、正面の二つの焚き口を煉瓦で塞ぎます。隙間から空気が入らないようモルタルを塗っていきます。うつわを詰めた1室めの房(部屋)の脇に設けられた焚き口から、薪を投じ始めます。1300度に近い温度で十分に焼けたところで、1室目の焚き口を塞ぎます。
 次に2室めに移り、焚き口から薪を投じます。


火入れから32~35時間後 2日め午後4時〜6時ころ
2室めも十分に焼いたと判断したところで、焚き口を煉瓦とモルタルで塞ぎ、窯焚きを終えます。

窯出し
窯焚きに掛けた時間と同じ、2日間が冷却期間です。窯出し作業では、まだうつわは熱い状態です。窯詰め同様に共同で行います。


ボシ(匣鉢)の蓋を開けて、なかに入れたうつわを確認します。

登り窯の正面の焚き口に並んだ、窯出しされたうつわ。